ダジャレ先生の面白くてためになるブログ

学校での面白くてためになる話を中心に記事にしました。絶対に笑えます。一見の価値あり!面白くなかったらごめんなさい!

学校にある銅像!二宮金次郎ってだれですか?ニノじゃないよ!

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学校の二宮尊徳像!



1 はじめに(お礼)

 

 令和になり、5月7日からはじめた「ダジャレ先生の面白くてためになるブログ」も本日の記事をもって100記事目になりました。これもいつもはてなスター☆やブックマークをつけてくださる。皆様方のお陰だと感謝しております。今現在424人の読者数ですが500人・600人と多くの方々に読んでいただける記事を掲載していきたいと考えておりますので今後ともよろしくお願いいたします。

令和100記事のお礼は(れいわ)この記事で)(だじゃれです。) 

 

2 あの銅像はだれですか!

 

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座っている二宮金次郎像

 最近、「座っている二宮金次郎」の銅像が話題になりました。本を読みながら薪を背負っているのは、「歩きスマホ」の助長につながるのではないか?とのことからか?わかりませんが調べてみることにしました。

 昭和の時代には、各学校の正門付近か木造校舎の前に「二宮金次郎(尊徳)」の銅像がある学校が多くありましたが、今は、どこかへ消えてしまっている学校が多いようです。子供からこんな質問が出ました。

児童 「あそこに建っている銅像はだれですか?」

先生 「あれは、二宮金次郎(尊徳)という人だよ。」

児童 「何であるの?」

先生 「うーん。りっぱな人だよ。」

先生 「薪を拾いに行きながらも本を読んで勉強をしていた偉い人だよ。」

児童 「歩きながら本を読んでいいの?」

先生 「そうだね。どんな人か調べてみよう。」


3 二宮金次郎とはどんな人?

 

①人物像


名 前:二宮 尊徳(にのみや たかのり)幼小時 二宮 金次郎

    没後 「そんとく」と呼ばれる。

出身地:相模国足柄上郡栢山村(現・神奈川県小田原市栢山(かやま))

生 誕:1787年9月4日(江戸時代)

死 没:1856年11月17日

享 年:69

家 族:父:利右衛門(金次郎13歳の時死没)

  母:よし(金次郎15歳の時死没)
    弟 友吉・富次郎(1歳で母の弟へ里子)

 

②幼少時代 家が流されてしまった

 

 二宮金次郎は(尊徳)は、江戸時代の末期に農民の子として生まれ、貧しい少年時代を過ごしました。尊徳が5歳の時、南関東をおそった暴風で、村の近くを流れる川の堤が決壊し、尊徳の住む地域が、濁流によって押し流されてしまいました。その影響で父の田畑は崩壊。家も流失しました。

 

③青年時代1 借金を抱えて貧乏に

 

 立て直しをがんばって、田畑は数年で復旧しましたが、借金を抱えて貧乏になってしまいました。(父を14歳で母を16歳で亡くし伯父の家で育てられた。)金次郎は、朝から晩までまじめに働きましたが、「本を読む時間があったらその分働け」と言われ家では勉強をさせてもらえませんでした。

 

④青年時代2 薪を背負って本を読む
 
 そこで、銅像のように薪を背負っての道中に本を読んで勉強をしたのでした。18歳で、祖父の家を離れ、親族の家に寄宿しながら働き、貯金を貯めていました。20歳で家に戻り家業の復活に尽くしました。

 

⑤壮年時代1 家を修復し、田んぼの一部を買い戻す

 
 家を修復し、田んぼの一部を買いもどし、田畑を貸し出すなどして、収入の増加を図りました。復活に成功すると、尊徳は農園経営を行いながら、自身は小田原に出て、武家奉公人として武家に奉公しました。

 

⑥壮年時代2 小田原藩家老服部家の立て直し
 
 その頃、小田原藩で家老(武家の家臣の最高職)をしている服部十郎兵衛が、尊徳に服部家の家政の建て直しを依頼しました。尊徳は服部家の財務を整理して千両の負債を償却し、余剰金300両を贈ったが、自らは一銭の報酬も受け取りませんでした。この評判によって小田原で尊徳の名前が知られるようになりました。

 

⑦晩年 小田原藩内の救済・復興

 

 その後も小田原藩内で多くの家、村々の救済、再興を行い、功績を挙げていきました。各地の農村復興などに尽くしました。そして1856年、下野国今市村(現在の栃木県日光市)にて死去しました。

 

4 なぜ学校に設置されたのか?
 
 尊徳の実践した自助的な農政をモデルとすることで自主的に国に貢献し・奉仕する姿がその時代の思想と目的に合致したようです。昭和初期になると地元の人々や卒業性の寄付によって各地の小学校に多く建てられたようです。その時の大きさが1メートルとされたこともあったようです。
 小学校においては、金次郎は、勤勉の象徴として、貧しい農民だったのに苦労をし、勉強をして、国ために活躍した立派な人として広まったようです。また、子供たちには、寸暇を惜しんで勉強をしてほしいという願いが現れていたようです。

 

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常に一歩前に足を踏み出している!

5 おわりに
 
 現在は、校舎の建て替え工事や耐震工事の関係から場所を移動したり、地震により破損してしまい撤去してしまった学校も見られます。銅像は、なくなってしまった学校も尊徳の精神は、いつまでも受け継がれています。また、尊徳を祭っている「二宮神社」が嵐の活動休止とともに注目されているとのことです。

 本日も「面白くてためになるブログ」略して「おもためブログ」「私は重ため」を訪問していただき、最後まで読んでいただきありがとうございました。
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